adsawinさんの旅行記
テーマ:歴史・文化・芸術
旅行記タイトル:太平洋戦争の残した足跡を辿る・・・・
旅行期間:2005/03/13〜2005/03/14

旅行記の内容:太平洋戦争の残した足跡哀しい時代の流れ・・・・
*************チュチャイ氏はこの博物館を開館するに辺りこう語られている。
”日本軍の残虐さに主眼を置くカンチャナブリの博物館とは違う、タイ人も苦しめられたが、日本兵も国家の命令でここまで連れてこられ苦痛を味わった、その戦争の悲惨さがこの博物館のテーマであると・・・*********************
=============================
戦後の時代を生きている自分達とは無関係だと思い育って来た自
分達・・しかし時代は見ていたのだ、タイと言う国の中にそれも別々な形で・・・その傷跡を・・哀しい事実を見つめる時が来たのかもしれない・・逃げられない苦しみを同じ日本人である事で、彼らの安らぎを永遠の眠りを確保して行かなければならないと感じる。
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歴史: 開戦の決意は1941年11月5日の御前会議の新「帝国国策遂行要領」で固まり、開戦日も陸海軍作戦当局者の間で決定。
1941年12月8日 ニイタカヤマノボレを合図に日本軍は真珠湾攻撃への攻撃を行う。
これが有名な真珠湾攻撃、後にも先にもアメリカを心底怒らしたとされる大きな戦線布告であった。
タイ南部のソンクラーの上陸を行いました。
これが所謂太平洋戦争の始まりでした、日本はタイと講和条約を結びタイは日本軍の国内駐留を認た、それはタイが隣国ビルマやインドに対しその勢力を伸ばしたかったからであるとさせている。
この後日本軍はインド東北部にインパール作戦が行われた。
インパール作戦とは、ビルマに進入した日本軍が幾多の作戦によってほぼ全ビルマを占領したあと、さらにビルマ国境を越えてインドに進攻しようとした一大作戦をいう。
この作戦はビルマを確保するためにはビルマの防衛線を国境外に推進しなければならないとする戦略と、インドに兵を入れ、インドを独立させて英国を浮き上がらせ、英米の連合戦線を分断することによって太平洋戦争を終結に導いてゆきたいとする政略とが結びついて企図されたものである。
インド、北ビルマ(ミャンマー)、バングラデッシュ、中国(雲南省)の国境地、ビルマから国境をインド(マニプル州)へ越えると要衝インパールがある、この地域はヒマラヤ山脈がインドシナ半島に落ちるところであり、地形は極めて険阻、インド・ビルマ国境をなす西側山脈(アラカン山系、パトカイ山系)は 3千m 級でかつ急峻、容易に人を寄せつけなかった。
それに添って南流するチンドウィン川(下流はイラワジ川となる)も夏季 には最大 1 日 1000 ミリを超える雨量(東京の年間雨量に近い)で水嵩が増し、荒れ狂う無数の流れに分かれ氾濫、また、流域は高温多湿でチフス、マラリアなど熱帯病が猖獗(しょうけつ)し猛威を振るった、と記録されている位最悪なる場所であった。
これによる日本軍兵士達の日本に向けての過酷で悲惨な帰国までの道のりがあり、多くに兵士達がこのチェンマイで命を落として行ったのです。
その戦争の真実を伝え、兵士の霊を慰める慰霊塔が幾つかこの北タイにも立てられています、厚生省による遺骨収集が行われましたが、5万から6万体の未収集の遺骨が北タイには埋まって要るだろうと言われているのです。
チェンマイより300km離れたクンユアムにはワットムアイトー・タイヤイスタイルの美しい寺院があり・ワットフアウィエンは廃寺だが昔は病院、軍票印刷所があった所だ。
このクンムアンだけでも7000人日本兵士が亡くなっている。
第2次世界大戦中、日本軍はチェンマイに約3万人駐屯していたと言う。
タイは戦場にはならないで済んだがその足跡に付いては多くを語られていない。
チェンマイ市内には当時駐屯していた日本軍の本部がワットムーンサーン寺院にあり、病院、宿舎、軍票印刷所、養豚所、畑などがあったとされている。
慰霊碑自体は1980年今から25年前に戦友たちの手で建てられている。
従軍看護婦として勤務していた方は境内の中におおきなタマリンドを覚えているという事だ。
******************** メーホンソーン県にある、クンユアム郡はミャンマーとの国境にあり、ビルマ作戦に於いて重要な基地のひとつであった、サルウィン河の渡り地点ケマピュ―に道は続いていて、更にトングーに繋がっている。
そしてこの道がインパール作戦後日本兵が敗走し戻って来た白骨街道と呼ばれている道である。
この時点でも既に7000人に上る将兵が命を落としたと言われている。
チェンマイへ向かう道は3本のルートがある、そのうち北回りの道では自動車道建設の為に多くのタイ人労働者が命を落として入る事からここも白骨街道と呼ばれた由縁である。
しかし当時、ここでの現地住民と軍との関係が保たれて入た事で多くの交流が生まれ今日に至る物である。
第二次世界大戦のビルマ戦線に参加した日本軍将兵が残した小銃、日本刀、飯ごうなど戦中から直後に掛けて、日本兵が地元の人々に売ったり譲ったりした武器や遺品が多くの現地住民の家に秘蔵されていた事を知り、当時のクンユアム警察署のチュチャイ署長らが住民に協力を求めて展示する同意を受けた、それらの保存状態がすこぶる良いことは当時に日本兵達がヒモジイ、貧しい食料の中・村を襲撃してまでも手に入れた食料ではなく、食料と交換して得た物であると言う証拠であろうか・・ここにいた日本兵は少なくとも日本人の優しい心は失わずに居たということが証明さいるように感じた。
約1000点に及ぶ遺品が集められ{タイ・ビルマ戦線将兵鎮魂之碑}が開館した。
このチュチャイ氏はこの博物館を開館するに辺りこう語られている。
”日本軍の残虐さに主眼を置くカンチャナブリの博物館とは違う、タイ人も苦しめられたが、日本兵も国家の命令でここまで連れてこられ苦痛を味わった、その戦争の悲惨さがこの博物館のテーマであると・・・この言葉はそう簡単には出ないと思う、それでも彼がここまで日本兵を大切に思って入てくれる事が何より喜ぶべき戦後の姿ではないだろうか?
メーリムのワットドンゲーオと山岳民族学校内には、日本軍の病院なども残されていたが現在では池があるだけだ。
山岳民族学校の敷地内には、爆撃によけの防空壕後らしき物もある、敷地内にはこれと同じ物が多く残されていたらしいが、時代と共に埋められ壊れたりして現在では1つだけが残されていた。
以前には敷地内の土地を掘り返して入た所、日本人の物か分らないが人骨が出てきたということで池に骨を埋め供養の為に祠を建てたということである。
この近くに日本人がいない為ここを面倒を見る人が居ないその為荒れ果てた姿が哀しい姿に見える。
しかしこれが時代の流れである事に違いはない。
メーワーン郡パーンガートー中学高校敷地内にある慰霊塔 ・タイ・ビルマ方面戦病没者追悼之碑と鐘楼、その全ては日本から運ばれて来た物だ。
ここには当時ビルマからクンユアムを通り逃げ延びここで力尽きた日本兵の遺体がバーンガート中学高校内の池に沈められたままになっていた。
当時の日本軍の軍医であった人の証言がありここがそうであると言う事実が分り1990年に佐賀県の僧侶が中心となりタイ・ビルマ方面戦病没者追悼委員会が作られ1993年に慰霊碑が建てられた、この管理を学校側にお願いする代わりに生徒に奨学金を支給する方法をとって入る。
1998年と2000年には厚生省による遺骨収集が行われた。
2001年に昭和天皇からの贈呈品としてこの鐘楼が建立された。
看板などの説明を見る限り手前の池に骨が捨てられていたような説明だったが、実際にはこの慰霊塔の中央にある慰霊の下がそうである、そこから骨を入れるようになっていた、そこは今も塞がれず誰でもが覗いてみる事が出来るが・・その下は何mも深くとても覗いて見れる様子は無い。
この慰霊塔の後ろ手に実際に日本兵が暮らしていたが、今ではその後には特に何も残されては入ない。
誰も説明がない限りそこに何があり、誰がそこにいたのかさえも不明だった。
偶然出会わせた学校の庭師が説明してくれた、自分の父親が世話をしていた、自分も亡くなるった方々を埋葬する手伝いをしたりして来たと・・敗戦の報告がラジオで流れた翌日或いは、その夜多くの日本兵が自決したと話してくれた。
それが日本人の責任の取り方なのかとその時は恐ろしい思いで様子を見ていたものだと・・・しかし良く考えてみれば怖かったんだろうと、今更ながら気の毒に思うと話してくれた。
この辺りに沢山の関係施設があり戦後手が加わり遺骨も点々と埋められていた為この地に慰霊塔を建てる許可を学校に申し要れ許可が降りてから終了するまでに必要なものが全て日本から運ばれて来た物であった。
昭和天皇亡き後の昭和天皇からの贈り物・・彷徨う霊達がこの鐘の音が目印となりここに集まり健やかなる眠りにつく事を祈るばかりである。
写真:太平洋戦争の残した足跡哀しい時代の流れ・・・・
*************チュチャイ氏はこの博物館を開館するに辺りこう語られている。
”日本軍の残虐さに主眼を置くカンチャナブリの博物館とは違う、タイ人も苦しめられたが、日本兵も国家の命令でここまで連れてこられ苦痛を味わった、その戦争の悲惨さがこの博物館のテーマであると・・・*********************
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戦後の時代を生きている自分達とは無関係だと思い育って来た自
分達・・しかし時代は見ていたのだ、タイと言う国の中にそれも別々な形で・・・その傷跡を・・哀しい事実を見つめる時が来たのかもしれない・・逃げられない苦しみを同じ日本人である事で、彼らの安らぎを永遠の眠りを確保して行かなければならないと感じる。
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歴史: 開戦の決意は1941年11月5日の御前会議の新「帝国国策遂行要領」で固まり、開戦日も陸海軍作戦当局者の間で決定。
1941年12月8日 ニイタカヤマノボレを合図に日本軍は真珠湾攻撃への攻撃を行う。
これが有名な真珠湾攻撃、後にも先にもアメリカを心底怒らしたとされる大きな戦線布告であった。
タイ南部のソンクラーの上陸を行いました。
これが所謂太平洋戦争の始まりでした、日本はタイと講和条約を結びタイは日本軍の国内駐留を認た、それはタイが隣国ビルマやインドに対しその勢力を伸ばしたかったからであるとさせている。
この後日本軍はインド東北部にインパール作戦が行われた。
インパール作戦とは、ビルマに進入した日本軍が幾多の作戦によってほぼ全ビルマを占領したあと、さらにビルマ国境を越えてインドに進攻しようとした一大作戦をいう。
この作戦はビルマを確保するためにはビルマの防衛線を国境外に推進しなければならないとする戦略と、インドに兵を入れ、インドを独立させて英国を浮き上がらせ、英米の連合戦線を分断することによって太平洋戦争を終結に導いてゆきたいとする政略とが結びついて企図されたものである。
インド、北ビルマ(ミャンマー)、バングラデッシュ、中国(雲南省)の国境地、ビルマから国境をインド(マニプル州)へ越えると要衝インパールがある、この地域はヒマラヤ山脈がインドシナ半島に落ちるところであり、地形は極めて険阻、インド・ビルマ国境をなす西側山脈(アラカン山系、パトカイ山系)は 3千m 級でかつ急峻、容易に人を寄せつけなかった。
それに添って南流するチンドウィン川(下流はイラワジ川となる)も夏季 には最大 1 日 1000 ミリを超える雨量(東京の年間雨量に近い)で水嵩が増し、荒れ狂う無数の流れに分かれ氾濫、また、流域は高温多湿でチフス、マラリアなど熱帯病が猖獗(しょうけつ)し猛威を振るった、と記録されている位最悪なる場所であった。
これによる日本軍兵士達の日本に向けての過酷で悲惨な帰国までの道のりがあり、多くに兵士達がこのチェンマイで命を落として行ったのです。
その戦争の真実を伝え、兵士の霊を慰める慰霊塔が幾つかこの北タイにも立てられています、厚生省による遺骨収集が行われましたが、5万から6万体の未収集の遺骨が北タイには埋まって要るだろうと言われているのです。
チェンマイより300km離れたクンユアムにはワットムアイトー・タイヤイスタイルの美しい寺院があり・ワットフアウィエンは廃寺だが昔は病院、軍票印刷所があった所だ。
このクンムアンだけでも7000人日本兵士が亡くなっている。
第2次世界大戦中、日本軍はチェンマイに約3万人駐屯していたと言う。
タイは戦場にはならないで済んだがその足跡に付いては多くを語られていない。
チェンマイ市内には当時駐屯していた日本軍の本部がワットムーンサーン寺院にあり、病院、宿舎、軍票印刷所、養豚所、畑などがあったとされている。
慰霊碑自体は1980年今から25年前に戦友たちの手で建てられている。
従軍看護婦として勤務していた方は境内の中におおきなタマリンドを覚えているという事だ。
******************** メーホンソーン県にある、クンユアム郡はミャンマーとの国境にあり、ビルマ作戦に於いて重要な基地のひとつであった、サルウィン河の渡り地点ケマピュ―に道は続いていて、更にトングーに繋がっている。
そしてこの道がインパール作戦後日本兵が敗走し戻って来た白骨街道と呼ばれている道である。
この時点でも既に7000人に上る将兵が命を落としたと言われている。
チェンマイへ向かう道は3本のルートがある、そのうち北回りの道では自動車道建設の為に多くのタイ人労働者が命を落として入る事からここも白骨街道と呼ばれた由縁である。
しかし当時、ここでの現地住民と軍との関係が保たれて入た事で多くの交流が生まれ今日に至る物である。
第二次世界大戦のビルマ戦線に参加した日本軍将兵が残した小銃、日本刀、飯ごうなど戦中から直後に掛けて、日本兵が地元の人々に売ったり譲ったりした武器や遺品が多くの現地住民の家に秘蔵されていた事を知り、当時のクンユアム警察署のチュチャイ署長らが住民に協力を求めて展示する同意を受けた、それらの保存状態がすこぶる良いことは当時に日本兵達がヒモジイ、貧しい食料の中・村を襲撃してまでも手に入れた食料ではなく、食料と交換して得た物であると言う証拠であろうか・・ここにいた日本兵は少なくとも日本人の優しい心は失わずに居たということが証明さいるように感じた。
約1000点に及ぶ遺品が集められ{タイ・ビルマ戦線将兵鎮魂之碑}が開館した。
このチュチャイ氏はこの博物館を開館するに辺りこう語られている。
”日本軍の残虐さに主眼を置くカンチャナブリの博物館とは違う、タイ人も苦しめられたが、日本兵も国家の命令でここまで連れてこられ苦痛を味わった、その戦争の悲惨さがこの博物館のテーマであると・・・この言葉はそう簡単には出ないと思う、それでも彼がここまで日本兵を大切に思って入てくれる事が何より喜ぶべき戦後の姿ではないだろうか?
メーリムのワットドンゲーオと山岳民族学校内には、日本軍の病院なども残されていたが現在では池があるだけだ。
山岳民族学校の敷地内には、爆撃によけの防空壕後らしき物もある、敷地内にはこれと同じ物が多く残されていたらしいが、時代と共に埋められ壊れたりして現在では1つだけが残されていた。
以前には敷地内の土地を掘り返して入た所、日本人の物か分らないが人骨が出てきたということで池に骨を埋め供養の為に祠を建てたということである。
この近くに日本人がいない為ここを面倒を見る人が居ないその為荒れ果てた姿が哀しい姿に見える。
しかしこれが時代の流れである事に違いはない。
メーワーン郡パーンガートー中学高校敷地内にある慰霊塔 ・タイ・ビルマ方面戦病没者追悼之碑と鐘楼、その全ては日本から運ばれて来た物だ。
ここには当時ビルマからクンユアムを通り逃げ延びここで力尽きた日本兵の遺体がバーンガート中学高校内の池に沈められたままになっていた。
当時の日本軍の軍医であった人の証言がありここがそうであると言う事実が分り1990年に佐賀県の僧侶が中心となりタイ・ビルマ方面戦病没者追悼委員会が作られ1993年に慰霊碑が建てられた、この管理を学校側にお願いする代わりに生徒に奨学金を支給する方法をとって入る。
1998年と2000年には厚生省による遺骨収集が行われた。
2001年に昭和天皇からの贈呈品としてこの鐘楼が建立された。
看板などの説明を見る限り手前の池に骨が捨てられていたような説明だったが、実際にはこの慰霊塔の中央にある慰霊の下がそうである、そこから骨を入れるようになっていた、そこは今も塞がれず誰でもが覗いてみる事が出来るが・・その下は何mも深くとても覗いて見れる様子は無い。
この慰霊塔の後ろ手に実際に日本兵が暮らしていたが、今ではその後には特に何も残されては入ない。
誰も説明がない限りそこに何があり、誰がそこにいたのかさえも不明だった。
偶然出会わせた学校の庭師が説明してくれた、自分の父親が世話をしていた、自分も亡くなるった方々を埋葬する手伝いをしたりして来たと・・敗戦の報告がラジオで流れた翌日或いは、その夜多くの日本兵が自決したと話してくれた。
それが日本人の責任の取り方なのかとその時は恐ろしい思いで様子を見ていたものだと・・・しかし良く考えてみれば怖かったんだろうと、今更ながら気の毒に思うと話してくれた。
この辺りに沢山の関係施設があり戦後手が加わり遺骨も点々と埋められていた為この地に慰霊塔を建てる許可を学校に申し要れ許可が降りてから終了するまでに必要なものが全て日本から運ばれて来た物であった。
昭和天皇亡き後の昭和天皇からの贈り物・・彷徨う霊達がこの鐘の音が目印となりここに集まり健やかなる眠りにつく事を祈るばかりである。
開戦の決意は1941年11月5日の御前会議の新「帝国国策遂行要領」で固まり、開戦日も陸海軍作戦当局者の間で決定。
1941年12月8日 ニイタカヤマノボレを合図に日本軍は真珠湾攻撃への攻撃を行う。
これが有名な真珠湾攻撃、後にも先にもアメリカを心底怒らしたとされる大きな戦線布告であった。
タイ南部のソンクラーの上陸を行いました。
これが所謂太平洋戦争の始まりでした

開戦の決意は1941年11月5日の御前会議の新「帝国国策遂行要領」で固まり、開戦日も陸海軍作戦当局者の間で決定。
1941年12月8日 ニイタカヤマノボレを合図に日本軍は真珠湾攻撃への攻撃を行う。
これが有名な真珠湾攻撃、後にも先にもアメリカを心底怒らしたとされる大きな戦線布告であった。
タイ南部のソンクラーの上陸を行いました。
これが所謂太平洋戦争の始まりでした

看板などの説明を見る限り手前の池に骨が捨てられていたような説明だった

あたかももの池の中に投げ捨てられていたように書いてある看板が哀しいかな言葉の行き違いを感じる。

当時ビルマからクンユアムを通り逃げ延びここで力尽きた日本兵の遺体がバーンガート中学高校内の池に沈められたままになっていた。
当時の日本軍の軍医であった人の証言がありここがそうであると言う事実が分り1990年に佐賀県の僧侶が中心となりタイ・ビルマ方面戦病没者追悼委員会が作られ1993年に慰霊碑が建てられた。

当時ビルマからクンユアムを通り逃げ延びここで力尽きた日本兵の遺体がバーンガート中学高校内の池に沈められたままになっていた。
当時の日本軍の軍医であった人の証言がありここがそうであると言う事実が分り1990年に佐賀県の僧侶が中心となりタイ・ビルマ方面戦病没者追悼委員会が作られ1993年に慰霊碑が建てられた。

当時ビルマからクンユアムを通り逃げ延びここで力尽きた日本兵の遺体がバーンガート中学高校内の池に沈められたままになっていた。
当時の日本軍の軍医であった人の証言がありここがそうであると言う事実が分り1990年に佐賀県の僧侶が中心となりタイ・ビルマ方面戦病没者追悼委員会が作られ1993年に慰霊碑が建てられた。

メーワーン郡パーンガートー中学高校敷地内にある慰霊塔 ・タイ・ビルマ方面戦病没者追悼之碑と鐘楼、その全ては日本から運ばれて来た物だ。
ここには当時ビルマからクンユアムを通り逃げ延びここで力尽きた日本兵の遺体がバーンガート中学高校内の池に沈められたままになっていた。
当時の日本軍の軍医であった人の証言がありここがそうであると言う事実が分り1990年に佐賀県の僧侶が中心となりタイ・ビルマ方面戦病没者追悼委員会が作られ1993年に慰霊碑が建てられた、この管理を学校側にお願いする代わりに生徒に奨学金を支給する方法をとって入る。
1998年と2000年には厚生省による遺骨収集が行われた。

メーワーン郡パーンガートー中学高校敷地内にある慰霊塔 ・タイ・ビルマ方面戦病没者追悼之碑と鐘楼、その全ては日本から運ばれて来た物だ。
ここには当時ビルマからクンユアムを通り逃げ延びここで力尽きた日本兵の遺体がバーンガート中学高校内の池に沈められたままになっていた。
当時の日本軍の軍医であった人の証言がありここがそうであると言う事実が分り1990年に佐賀県の僧侶が中心となりタイ・ビルマ方面戦病没者追悼委員会が作られ1993年に慰霊碑が建てられた、この管理を学校側にお願いする代わりに生徒に奨学金を支給する方法をとって入る。
1998年と2000年には厚生省による遺骨収集が行われた。

実際にはこの慰霊塔の中央にある慰霊の下がそうである、そこから骨を入れるようになっていた、そこは今も塞がれず誰でもが覗いてみる事が出来るが・・その下は何mも深くとても覗いて見れる様子は無い。

実際にはこの慰霊塔の中央にある慰霊の下がそうである、そこから骨を入れるようになっていた、そこは今も塞がれず誰でもが覗いてみる事が出来るが・・その下は何mも深くとても覗いて見れる様子は無い。

1998年と2000年には厚生省による遺骨収集が行われた。
2001年に昭和天皇からの贈呈品としてこの鐘楼が建立された。

その当時まだ小さな子供で・・・と言う学校にいる庭師のおじさんが話しをして、説明までしてくれた。
自分の父親が沢山の日本人の墓を掘り埋めた、敗戦と言う言葉が彼らに生きる希望をなくした・・可哀想だと心底思うと・・その時の彼らの様子を細かに説明した本は存在しない・・生き証人も既に数人と少ない数になっている。
この学校の裏には当時日本人が実際に住んでいた場所が残っていた、しかしその事実は何処にも記されてはいない・・
遠い道のりからここに着いた時には既に沢山の人が力尽きて亡くなっていたと語る・・・・ここに寝泊りしながら病院が宿舎が事務所が作られたと言うことだがそれらは今は残されてはいない、あるのはこの土地だけである。
ここには木造の大きな仏像が祭られていたそうだが、最近の学生達がその仏像を切り刻み寺院ごと移転する事になりここより南よりに新しい寺院が存在する。
しかしそこには特に日本人と関連した物はない。
残されたこの土地にも一応お坊様が存在するが、昔をしる方ではなく違う土地から来た方で、詳しいことは何も知らない様子だった。

おじさんは語る・・
ここに宿舎があり、ここに洗濯物を干し・・と当時の様子が鮮明に浮ぶようだ、敗戦の報告を天皇陛下が述べられたときにはうつ伏して声を出さずに泣いている日本軍の兵隊達は崩れ落ちるかの用にその場に付して泣いていたと言う。
その夜、将校や身分の位が高い人たちが、自決した。
その様子は今でも目に残ると言う。
遺体を処分する前にキチンを別れをする日本軍兵士達、その上に日本の国旗を被せて・・あの慰霊塔の水溜の中に沈めて行かなければならなかったからだ。
そこに眠る沢山の兵士達は遠くビルマなどから集められた遺骨18000体が今も静かに眠っている。

おじさんは語る・・
ここに宿舎があり、ここに洗濯物を干し・・と当時の様子が鮮明に浮ぶようだ、敗戦の報告を天皇陛下が述べられたときにはうつ伏して声を出さずに泣いている日本軍の兵隊達は崩れ落ちるかの用にその場に付して泣いていたと言う。
その夜、将校や身分の位が高い人たちが、自決した。
その様子は今でも目に残ると言う。
遺体を処分する前にキチンを別れをする日本軍兵士達、その上に日本の国旗を被せて・・あの慰霊塔の水溜の中に沈めて行かなければならなかったからだ。
そこに眠る沢山の兵士達は遠くビルマなどから集められた遺骨18000体が今も静かに眠っている。

おじさんは語る・・
ここに宿舎があり、ここに洗濯物を干し・・と当時の様子が鮮明に浮ぶようだ、敗戦の報告を天皇陛下が述べられたときにはうつ伏して声を出さずに泣いている日本軍の兵隊達は崩れ落ちるかの用にその場に付して泣いていたと言う。
その夜、将校や身分の位が高い人たちが、自決した。
その様子は今でも目に残ると言う。
遺体を処分する前にキチンを別れをする日本軍兵士達、その上に日本の国旗を被せて・・あの慰霊塔の水溜の中に沈めて行かなければならなかったからだ。
そこに眠る沢山の兵士達は遠くビルマなどから集められた遺骨18000体が今も静かに眠っている。

寺院の中でもあまり手入れが行き届いた寺院ではない、哀しいかな古い上観光化されている寺院ではない為、殆んどここを訪れる人がいない状態だ。
タイ人ですら戦争のことを知らない人には場所さえも、その寺院があることさえも知られていない現実がある。
そんな場所に2ヶ月前突然日本人老人が出家したと知らされた、会いに行くが中々遭えない、どうも外出するのがスキらしい・・・また遭えたときにその方の話を載せようと思う。
タイ語の読み書きが出来ないのでお坊様にはなれないと哀しい事実を聞いた・・でもオソラク普通の暮らしに戻るつもりが無いから80歳と言う年をして出家されたんだと思う・・・

寺院の中でもあまり手入れが行き届いた寺院ではない、哀しいかな古い上観光化されている寺院ではない為、殆んどここを訪れる人がいない状態だ。
タイ人ですら戦争のことを知らない人には場所さえも、その寺院があることさえも知られていない現実がある。
そんな場所に2ヶ月前突然日本人老人が出家したと知らされた、会いに行くが中々遭えない、どうも外出するのがスキらしい・・・また遭えたときにその方の話を載せようと思う。
タイ語の読み書きが出来ないのでお坊様にはなれないと哀しい事実を聞いた・・でもオソラク普通の暮らしに戻るつもりが無いから80歳と言う年をして出家されたんだと思う・・・

チェンマイ市内には当時駐屯していた日本軍の本部がワットムーンサーン寺院にあり、病院、宿舎、軍票印刷所、養豚所、畑などがあったとされている。
慰霊碑自体は1980年今から25年前に戦友たちの手で建てられている。
従軍看護婦として勤務していた方は境内の中におおきなタマリンドを覚えているという事だ

チェンマイより300km離れたクンユアムにはワットムアイトー・タイヤイスタイルの美しい寺院があり・ワットフアウィエンは廃寺だが昔は病院、軍票印刷所があった所だ。
このクンムアンだけでも7000人日本兵士が亡くなっている。
第2次世界大戦中、日本軍はチェンマイに約3万人駐屯していたと言う。
タイは戦場にはならないで済んだがその足跡に付いては多くを語られていない。

100年近い時を経ても、現地の方々が大切にしまわれて来た事が見て分る。
ピカピカに磨かれたブーツ・まだ真新しいコート・使う事がなかったのではないか?と思うほど新品のまま保存されている。
これだけに年月が経ちこの保存状況がどうしてこのタイで可能だったのか不思議でならない!
水筒には名前がついていた。
カバンや服等全てに持ち主の名前がついている。
ここに確かに入たんだと言う哀しい思い出がその部屋中を暗い雰囲気にさせていた。
ここから帰れない人もいたんだな・・・とここにいる人もいるんだな・・と

チェンマイへ向かう道は3本のルートがある、そのうち北回りの道では自動車道建設の為に多くのタイ人労働者が命を落として入る事からここも白骨街道と呼ばれた由縁である。
しかし当時、ここでの現地住民と軍との関係が保たれて入た事で多くの交流が生まれ今日に至る物である。
第二次世界大戦のビルマ戦線に参加した日本軍将兵が残した小銃、日本刀、飯ごうなど戦中から直後に掛けて、日本兵が地元の人々に売ったり譲ったりした武器や遺品が多くの現地住民の家に秘蔵されていた事を知り、当時のクンユアム警察署のチュチャイ署長らが住民に協力を求めて展示する同意を受けた、それらの保存状態がすこぶる良いことは当時に日本兵達がヒモジイ、貧しい食料の中・村を襲撃してまでも手に入れた食料ではなく、食料と交換して得た物であると言う証拠であろうか・・ここにいた日本兵は少なくとも日本人の優しい心は失わずに居たということが証明さいるように感じた。
約1000点に及ぶ遺品が集められ{タイ・ビルマ戦線将兵鎮魂之碑}が開館した。
このチュチャイ氏はこの博物館を開館するに辺りこう語られている。
”日本軍の残虐さに主眼を置くカンチャナブリの博物館とは違う、タイ人も苦しめられたが、日本兵も国家の命令でここまで連れてこられ苦痛を味わった、その戦争の悲惨さがこの博物館のテーマであると・・・

メーホンソーン県にある、クンユアム郡はミャンマーとの国境にあり、ビルマ作戦に於いて重要な基地のひとつであった、サルウィン河の渡り地点ケマピュ―に道は続いていて、更にトングーに繋がっている。
そしてこの道がインパール作戦後日本兵が敗走し戻って来た白骨街道と呼ばれている道である。
この時点でも既に7000人に上る将兵が命を落としたと言われている。
チェンマイへ向かう道は3本のルートがある、そのうち北回りの道では自動車道建設の為に多くのタイ人労働者が命を落として入る事からここも白骨街道と呼ばれた由縁である

「死の鉄道」(DEATH RAILWAY)とも呼ばれる泰緬(たいめん)鉄道は、アジア侵略を押し進める日本軍がインド侵攻のための軍需物資の陸上輸送ルートを確保する目的で敷かれた軍用鉄道である。
タイ(泰)のノンブラドックとビルマ(緬甸)のタンビザヤを結ぶ415kmに及ぶ鉄道は密林のジャングル、山岳地帯を通り、かつて同じルートでイギリスが計画を断念したほどの険しい地形の中に建設された。
1942年7月5日、日本軍は前年に同盟国となったタイで泰緬鉄道建設の測量作業を開始した。
当初調査段階では最低5年はかかると考えられた難工事であったが、日本の戦局の悪化に伴い急ピッチで工事を進めるよう命令が下り、43年10月17日、工事開始から1年3カ月という驚くべき早さで泰緬鉄道は完成する。
工事には連合軍捕虜約6万人、中国・インドネシア・ビルマ・マレーシア・インド・シンガポール・タイのアジア各国から募集、強制連行された労働者推計20万人が投入された。
地理的な悪条件に加え工期の短縮により労働は苛酷さをきわた。
猛暑の中、人海戦術でクワイ河沿いのジャングルを切り開き、国境山岳地帯の岩を削る作業が連日長時間続き、追い打ちをかけるように激しいスコールが襲った。
重労働、日本軍による虐待、食糧・医療品の不足、マラリアなどの伝染病によって莫大な数の死者を出していった。
その数は連合軍捕虜約1万2000人、アジア人労働者数万人。
死者の正確な数字は定かではなく、特にアジア人労働者はジャングルの奧に眠る死者の数が2万とも3万ともそれ以上ともいわれる。
戦後、泰緬鉄道での日本軍の行為は問題となり関係者多数が「捕虜虐待」として戦犯とされた。
泰緬鉄道を有名にしたのは、クワイ川架橋建設をテーマにした映画「戦場にかける橋」(英、1957)であろう。
映画では橋の建設という共通目的の中で日本軍と英軍捕虜が一丸となっていく姿が描かれる。
映画の最後では英将校が連合軍の攻撃から橋を守ろうとさえする。
しかしそれは映画の中のお話であろう、このクワイ河架橋は建設中から連合軍の攻撃で何度も破壊され、日本軍は連合軍捕虜を攻撃抑制のために橋の上に立たせる「人間の盾」としたが、それでも爆撃は行われ、多くの犠牲者を出したといわれている。
現在、泰緬鉄道はタイ国内ノンプラドックからナムトックまでが一部運行されている。
その途中、「戦場にかける橋」の舞台になったクワイ川鉄橋のあるカンチャナブリに泰緬鉄道に関する記録を展示した「JEATH・戦争博物館」がある。
「JEATH」とは泰緬鉄道にかかわった6カ国、日本(Japan)・イギリス(Engrand)・アメリカ(America)・オーストラリア(Australia)・オランダ(Holland)・タイ(Thailand)の頭文字を合わせたもので「DEATH=死」をもじっている。
単なる「死」の博物館ではない、「日本」による「死の博物館」であることを明確に示しているように思える。
同博物館の表門にはこう書かれている。
“FORGIVE BUT NOT FORGET”「許そう、しかし忘れない」。

今後私達残された人間がいかに平和に暮らしていくかと言う一番難しいテーマを投げ出されているように思います。
世界中でこの悲惨な戦争を繰り返し行うことの無意味さ!それを個人がどう考えどう判断するか?
これが一番難しいテーマであるように思います。
旅行であれ、ステイであれ、ここに来たと言う事は忘れてはならない昔の事情を踏まえて
歩いていかなければ行けないと言うこと。
そこから新しい世界の結びつきが生まれて行くだろうという事を・・

今後私達残された人間がいかに平和に暮らしていくかと言う一番難しいテーマを投げ出されているように思います。
世界中でこの悲惨な戦争を繰り返し行うことの無意味さ!それを個人がどう考えどう判断するか?
これが一番難しいテーマであるように思います。
旅行であれ、ステイであれ、ここに来たと言う事は忘れてはならない昔の事情を踏まえて
歩いていかなければ行けないと言うこと。
そこから新しい世界の結びつきが生まれて行くだろうという事を・・

今後私達残された人間がいかに平和に暮らしていくかと言う一番難しいテーマを投げ出されているように思います。
世界中でこの悲惨な戦争を繰り返し行うことの無意味さ!それを個人がどう考えどう判断するか?
これが一番難しいテーマであるように思います。
旅行であれ、ステイであれ、ここに来たと言う事は忘れてはならない昔の事情を踏まえて
歩いていかなければ行けないと言うこと。
そこから新しい世界の結びつきが生まれて行くだろうという事を・・

誰かが言っていた・・
ドイツの様に戦争でした事を認め其れを公にする事、そしてお互いに許しあうこと、そこから後そのとき戦いながら傷ついた国の回復を手助けするべきだと言う言葉・・・・
あの時代ドイツとの戦いで民家を焼払い人々が息絶えていったビルマの人々と国に対して、日本は責任を感じるべきだと思う、あの時あれだけの悲惨な状況にさえならなければ、今のビルマはもう少し進歩し救わただろう・・・そう思うと、戦後何十年と言う時間が流れたにも係わらず、未だ立ち上がれない国ビルマを見ると哀しい出来事が解決されていない事情が読み取れる。

ヘルファイアーパス「死の鉄道」(DEATH RAILWAY)とも呼ばれる泰緬(たいめん)鉄道は、アジア侵略を押し進める日本軍がインド侵攻のための軍需物資の陸上輸送ルートを確保する目的で敷かれた軍用鉄道である。
タイ(泰)のノンブラドックとビルマ(緬甸)のタンビザヤを結ぶ415kmに及ぶ鉄道は密林のジャングル、山岳地帯を通り、かつて同じルートでイギリスが計画を断念したほどの険しい地形の中に建設された。
1942年7月5日、日本軍は前年に同盟国となったタイで泰緬鉄道建設の測量作業を開始した。
当初調査段階では最低5年はかかると考えられた難工事であったが、日本の戦局の悪化に伴い急ピッチで工事を進めるよう命令が下り、43年10月17日、工事開始から1年3カ月という驚くべき早さで泰緬鉄道は完成する。
工事には連合軍捕虜約68000人、中国・インドネシア・ビルマ・マレーシア・インド・シンガポール・タイのアジア各国から募集、強制連行された労働者推計300.000人が動入された。
地理的な悪条件に加え工期の短縮により労働は苛酷さをきわた。
猛暑の中、人海戦術でクワイ河沿いのジャングルを切り開き、国境山岳地帯の岩を削る作業が連日長時間続き、追い打ちをかけるように激しいスコールが襲った。
重労働、日本軍による虐待、食糧・医療品の不足、マラリアなどの伝染病によって莫大な数の死者を出していった。
その数は連合軍捕虜約13000人、アジア人労働者100.000人。
死者の正確な数字は定かではなく、特にアジア人労働者はジャングルの奧に眠る死者の数が2万とも3万ともそれ以上ともいわれる。
この工事で一番の難所を極めた場所をヘルファイアーパスと呼んだ。
歴史上でもっとも悲劇な場所で夜間の工事を照らすたいまつが地獄の業火のように見えたことからこの名前がつけられた。
ここを切り開いて進む為には丸太が必要であった・・たった130mの切り通しを作るために・・・その丸太の代わりに1人の人間が置かれ命を落としたのだ、人の命の尊さをその時どう考えたら出来たのだろうか?この130mの切り開期の為に犠牲になった人々は400人を超える・・しかもここで命を落とした人の大半がオーストラリア人だった。
泰麺鉄道が作られた理由1942年5月日本軍の輸送路は台湾からシンガポールを通って来ていた、しかしインドに進むためには更に輸送路を確保しなければならなかったが、南シナ海にはアメリカ軍の潜水艦がインド洋には連合軍の航空機が来て日本軍の輸送路を遮断した為、タイのバンコクからビルマのラング―ンを繋ぐ為にタイのノンプラットとビルマのタンピュザヤを結ぶ415kmの単線軌道を造ったとされている。
しかし、南シナ海とインド洋の両方からモンスーンが吹き荒れビルマとタイの間にはテナセリューム山系と言う山脈がありこれが正面から衝突する為困難を要したのである、その上ここは世界の中でももっとも最悪な悪疫が反映する場所としてあらゆる病気が蔓延していたところだった。
これを承知でこの鉄道は造られたのである。
なんと無謀なと当時は誰もが日本を非難したと言われている。
当時日本軍は占領地で連合軍をシンガポールに集めていた、シンガポールで捕虜になった人だけでも15万人約30万人はそこに集められていたと言われています。
その中から言葉巧みに誘い約68000人が志願しタイに連れて行きました。
この人達以外にもビルマから18万人、マラヤから8万5千人、インドネシアから4万5千人合計30万人の労務者を連れ日本軍が1万2千人全部でそこには40万人以上の人たちがいた事になります。
食糧不足・アメーバー赤痢・マラリアなどに遣られ40万人の半数がそこで命を落としています。
その上日本軍はビルマの食料を食べ尽くし、イギリスはその民家に逃げ隠れしていた日本軍を狙い民家に爆弾を落として入た為、ビルマはほぼ全滅に近い状態に陥り、その為か今に至るまで国事態が回復出来ない状況にある訳です。
戦後、泰緬鉄道での日本軍の行為は問題となり関係者多数が「捕虜虐待」として戦犯とされます。
泰緬鉄道を有名にしたのは、クワイ川架橋建設をテーマにした映画「戦場にかける橋」(英、1957)であったでしょう。
映画では橋の建設という共通目的の中で日本軍と英軍捕虜が一丸となっていく姿が描かれています。
映画の最後では英将校が連合軍の攻撃から橋を守ろうとさえします、しかしそれは映画の中の話で、このクワイ河架橋は建設中から連合軍の攻撃で何度も破壊され、日本軍は連合軍捕虜を攻撃抑制のために橋の上に立たせる「人間の盾」としたと言われています。
それでも爆撃は行われ、多くの犠牲者を出し他のです。

メーリムのワットドンゲーオと山岳民族学校内には、日本軍の病院なども残されていたが現在では池があるだけだ。
山岳民族学校の敷地内には、爆撃によけの防空壕後らしき物もある、敷地内にはこれと同じ物が多く残されていたらしいが、時代と共に埋められ壊れたりして現在では1つだけが残されていた。
以前には敷地内の土地を掘り返して入た所、日本人の物か分らないが人骨が出てきたということで池に骨を埋め供養の為に祠を建てたということである。
この近くに日本人がいない為ここを面倒を見る人が居ないその為荒れ果てた姿が哀しい姿に見える。

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